私の古い友人に、ワシントンDCで、小さな英語学校と出版社を経営している人がいます。
年齢は私より20歳以上も上です。
Harvard Universityで日本文学を専攻し、私が生まれたころは日本研究者の一人として進駐軍で来日していました。
ともかくおそろしく丁寧な古い日本語を使える人でした(私の前ではほとんど喋りませんでしたが)。
奥さんはHarvard Universityで知り合ったコロンビア出身の人です。
息子さんが3人いて、一人はHarvard Universityを出て子ども劇場の脚本家として全国を廻って貧乏し、現在はニューヨークでコメディコメンテーターとして雑誌やテレビで名を馳せています。
もう一人はリベラルアーツ・カレッジの名門Colby Collegeを卒業して新聞記者になり、スポーツ担当でとくに野球、それも日本人選手についての記事が得意です。
日本のある球団のイベントプロデューサーとして日本でも活躍しました。
日本語を学んで日本人女性と結婚したいと言っています。
もう一人はYale Universityを卒業してイタリア人と結婚し、現在イタリアに住んでいます。
その友人の英語学校と出版社は、そんなに儲かっているところではありません。
学者肌の人で、バリバリのビジネスマンというのではなく、ごくごく普通の家に住んでいるし、生活もとても質素です。
息子がHarvard Universityに行ったことを自慢することもなく、また、子どもたちもガリ勉というのでもありません。
子どもたち3人が私立に行ったというのは、大変お金のかかることです。
別の友人は、息子がBrown Universityに入ったときに、お金がかかると盛んに言っていましたが、彼は、Boston Universityで博士号をとって、なぜか野球選手、CIA勤務という異色の経歴を経て、教育界に入り、ある大学の学長になり、大学を躍進させたやり手で、つねに上をめざす人です。
要は、息子がよくでき、かつ自分がその教育費を支払える経済状態にあるということを言いたかったフシが大いにありますが、前述の古い友人はまったくそういうタイプの人ではありません。
ですから、本人は言わないけれども、3人の子どもの教育費は相当の負担であったろうと考えられます。
それでも3人がそれぞれ名門の私立大学に行ったということは、やはり東部の教養レベルの深い家族の行くべきところであったと言わざるを得ません。
何しろ、国家ができる100年も前から、Harvard Universityをはじめ私立の学校があった、とてもフシギな国なのです。
アメリカの私立大学は、いまでも教育レベルの高い層に深く根をおろしています。
ここで、大学のタイプ別にいくつかの進学例を見てみましょう。
(名門ボーディングスクール→名門リベラルアーツ・カレッジ→名門大学院)
キャロリンは台湾系アメリカ人です。
お父さんが台湾の優秀なお医者さんで、若くしてアメリカの研究機関に招かれて、渡米しました。
その関係でキャロリンはペンシルバニアで生まれ、アメリカ人としてお兄さんと育つことになりました。
台湾でも教育レベルの高いファミリーでしたから、キャロリンは、アメリカのやはり教育レベルが高いファミリーの子弟が進学するボーディングスクール(寮制の学校)、 Choate Rosemary Hallに入学しました。
日本では麻布・灘高といったところですが、この高校の費用は、1年間(実質8か月)で学費と寮・食費合わせて45,000ドル以上です。
アメリカ人の平均年収は約43,000ドルで、政府の定める貧困ラインを下回る人が12%近くもいる国ですから、この費用は大変なものです。
したがってこういったボーディングスクールは、学力が高く、かつ、経済力にも恵まれた子弟の行く学校です。
校長も先生も生徒もみんな、同じ広大なキャンパスに住み、スポーツや芸術に親しみ、将来の社会のリーダーになるべく、全人的な教育がされます。
こういった高校の生徒の多くは、レベルの高い大学に進学しますが、日本のような大学受験というものはありません。
あくまでも高校4年間の成績や人間的にどのように成長したかということが、大学に合格する決め手になります。
Choate Rosemary Hallでは、質の高い大学進学カウンセリングが受けられ、ガイダンスカウンセラーは生徒に大学のタイプの違い(リベラルアーツ、州立大学、リベラルアーツ以外の私立大学など)を教え込んでいました。
アメリカ人のエリートにとっての最終目標はアイビーリーグですが、Choate Rosemary Hallでは、アイビーリーグと比較するとほんの少し劣るものの、リベラルアーツ・カレッジの教育の質を高く評価し、生徒にすすめていたのです。
Seniorになると、本人の希望や実力などを考慮しながら大学を一緒に選んでくれます。
だいたい3段階に分けて選んでくれるのが普通です。
すなわち、
・チャレンジ校
・実力相応校
・すべり止め校
というように分けてくれ、最終的に生徒はこの三つのグループから、いくつか選んで願書を出していきます。
書類審査ですので、推薦状やエッセイなど、さまざまな書類が必要で、こういったこともカウンセラーが相談にのってくれます。
放課後に塾に行くことはありません。
そもそも、キャンパスがあまりにも広く先生もみんな一緒に生活しているボーディングスクールでは、わざわざタクシーを呼ばないかぎりどこにも行けませんので、ちょっと町に出るためにもタクシーを30分以上走らせなければならないこともザラです。
ボーディングスクールの生徒たちは、親と学校の許可なくしてはキャンパスを離れることはできません。
アメリカには、日本の芸大のような、美術専門・音楽専門の大学も少数ですがあります。
こういった大学では、オーディションや作品提出を求められます。
そういったことにも応じられるように、ボーディングスクールでは、ピアノやバイオリンのレッスンをする先生もいますし、レッスン室も用意されています。
また、作品づくりにもアートの先生がいろいろと手伝ってくれます。
しかしながら、芸大でなくとも、普通の大学でアートや音楽が専攻できますし、オーディションも作品提出もいらない大学がたくさんありますので、何が何でも、どんな手段を使ってでも、特定の大学に入りたいという人は、ほんの少数に過ぎません。
もう少し、みんな自然体であるわけです。
キャロリンも、こういった環境で大変よい教育を受け、大学はリベラルアーツ・カレッジの名門Wesleyan Universityに進学しました。
キャロリンのお母さんは、台湾国立大学(日本の東大レベル)の経済学部を卒業し、卒業後すぐに結婚。
専業主婦ですが、いつも株の取引をしています。
お父さんは台湾の医学部を出て、大学院を卒業後アメリカに渡り、研修医として働き、後に医院を開業。
現在は台湾で病院を経営しています。
二人とも「犠牲を払ってでも子どもたちに高水準の教育を受けさせたい」と思っていました。
アメリカに渡ったのも、アメリカの教育、生活水準が台湾のそれよりも勝っていると考えたからです。
キャロリンが小さいころから、両親は他の台湾人の家族と子どもを比べ合い、キャロリンとお兄さんが「どんないい成績をとっているのか」「どんなに頭がいいのか」「勉強以外にどんなことができるのか」を自慢しあっていたそうです。
一般的に上流階級の台湾系アメリカ人の家族はとても学歴を気にします。
キャロリンも、キャロリンのお兄さんも、絶対に最終的にはアイビーリーグを卒業することが期待されていて、従兄弟もみなアイビーリーグ大を卒業しています。
日本人でも親が子どもの学歴を自慢し合いますが、キャロリンによると、台湾人の自慢合戦は日本よりも激しく、子どもは親から大変なプレッシャーをかけられるそうです。
キャロリンよりも、男性であるお兄さんによりプレッシャーがかけられ、医者になることを強く望まれました。
彼は現在Columbia Universityの大学院で言語学を専攻しています。
キャロリンの親戚の男性で医者になっていないのは、キャロリンのお兄さんだけです。
一方でキャロリンは女性だったため、ブランドネームのある大学に進学してほしいと両親は願っていたものの、そこで何を勉強するかなどには興味がなかった様子。
両親は、キャロリンがブランド大学に行けば、そこにいる同じ階級の台湾人男性と出会って、結婚できると思っていました。
キャロリンは都会の大きな私立大学に行きたかったのですが、アイビーリーグのColumbia Universityには及ばず、New York University (NYU)、Geore Washington University、Wesleyan Universityに受かりました。
Wesleyan Universityは、キャロリンの希望とは違ったのですが、お兄さんからその評判を聞かされていました。
NYUとGeorge Washington UniversityとWesleyan Universityの3校のうち、キャロリンは、一番レベルが高いのと、両親もアイビーリーグより少しは劣るものの一応満足してくれたので、Wesleyan Universityに行くことに決めました。
GPA (高校の平均成績。4点満点) 3.5、SAT1260(数学と読解の合計)、中国語が話せる、Choate Rosemary Hallからのとてもよい推薦状、スポーツはスカッシュとテニスが相当の腕前、台湾で数年過ごした経験、など、キャロリンはたくさん武器をもっていました。
何よりガイダンスカウンセラーが徹底的にエッセイ(出願に際して提出する英作文。)やよい願書の書きかたなどをたたき込んでくれたことが合格の決め手になったと、キャロリンは考えています。
キャロリンは大学ではまず、自分の興味を探求したかったそうです。
そのため2年生の終わりまでは専攻を決めませんでした。
1・2年で日本語、日本史、中国史を受講した後で、
East Asian Studies (東アジア学)を専攻すると決めたのです。
ほかの多くの高校生と同じく、入学した当初は、将来のビジョンははっきりしていませんでした。
大学で4年間を過ごせば自然に将来のビジョンが浮かんでくると考えていたし、実際そうでした。
Wesleyan Universityでは、とくに一般教養のカリキュラムがとても自由でした。
必修科目は決められておらず、学生自身が「数学系」「人文学系」「アート系」から自由に1、2教科を選ぶようになっていました。
キャロリンは、 Eastern Asian Studiesを紹介してくれた教授に出会えたこと、また教授たちのお陰で勉強に興味をもつことができたことをとても喜んでいます。
教授たちは、暗記ではなく、自分の頭で考えて、批判するといった勉強の仕方を教えてくれました。
ただ、少人数制がモットーだったので、 1クラスの学生数も限られていたため、人気があるクラスはすぐに定員オーバーになってしまい、とりたくてもとれない授業があったことは残念に思っています。
Wesleyanを卒業したキャロリンの友達は、ほとんど大学院に進学しています。
卒業後そのままストレートで大学院に行った人もいれば、数年働いてから進学した人もいます。
キャロリンは後者のタイプで、 Wesleyan Universityを卒業後、ニューヨークの語学学校で先生として働き、その後、 New York Asian Women Centerで家庭内暴力を受けた中国人女性と家族のためのカウンセラーとして勤めます。
そして台湾の出版社で1年間働いた後、アメリカに帰国し、Columbia Universityの大学院でEast Asian Studiesを専攻、修士号を取得しました。
大学院に行ったのは、両親・家族からのプレッシャーもありました。
両親はそもそも大学だけでは不十分だと思っていて、大学院まで行くことを期待していたのです。
大学院に出願したときは、それまでの学歴、成績、職歴、推薦状などを総合して、アイビーリーグに入学できるのではないかと思っていたため、アイビーリーグ3校しか出願しませんでした。
アイビーリーグに行くことが、アメリカに住む台湾人家族の一員であるキャロリンに一番期待されることだったので、アイビーリーグに進学することは必至だったといえます。
Columbia University、University of Pennsylvania、Yale
Universityのうち、前者2校に合格しました。
Columbia Universityでは同大学の東アジア研究所でパートタイムで働き、卒業後も同じ研究所でフルタイムの仕事を続けました。
その後、ボストンに移り、ディレクターになりました。
かくしてキャロリンも典型的な台湾系アメリカ人になったわけです。
(名門ボーディングスクール→名門リベラルアーツ・カレッジ→名門大学院)
クリスはキャロリンのボーイフレンドです。
台湾系ではなく、典型的な白人上流社会の出身です。
Wesleyan Universityを卒業して、 1年間「AmreriCorp」というボランティア団体で働き、その後 Yale Universityの大学院に進学し、現在、公共・社会政策のアナリストとして働いています。
ラフでカジュアルな感じの人ですが、礼節をわきまえ、親や目上の人に対する態度からも育ちのよさがうかがえます。
お父さんは弁護士で、お母さんは子どもが家を出るころから学校の先生を始めたそうです。
お姉さんと二人姉弟です。
ご両親は、自分たちの住んでいる地区の公立学校がよくないので、よい公立校のある町に引っ越しますが、そこも満足ではなかったため、子どもたちは私立寮制のボーディングスクールに入学しました。
クリスが入学したのはアメリカではNO.1のボーディングスクール、Phillips Academy (Andover)です。
大変、教育熱心なご家庭で、ご両親はクリスに医学部に進学してもらいたかったそうです。
このような環境ですから、大学に行くのはごく自然のことであり、また、合格した大学にはどこでも行けるというほど経済的にもとても恵まれていたわけです。
クリスが大学に期待していたことは、将来、どんな職業に就くにしても役に立つスキルを習得すること、そして、もっと教養のある(Educated)人間になることでした。
彼にとって教養とは、世界のありかたや、社会がどのように歴史的に形成されていくのかを、よく知ることでした。
高校時代から歴史には興味をもっていたので、大学ではフレキシビリティを養い、最終的には歴史・自然科学・社会学いずれかの分野を選択するための土台を作りたかったということです。
クリスはガイダンスカウンセラーに早くから相談し、大学を8校に絞り願書を出す予定でしたが、 Early Action (通常よりも先に願書を出し、合否も早めにもらう出願方法)で出願したWesleyan Universityが合格したので、同大学への入学を決めました。
SATは1400(数学と読解の合計)、 GPAは3.0、ほかに大学へのアピールとしてはスカッシュの選手だったこと、校内ラジオでショウのDJをしていたこと、また学校近くの町でボランティアをしていたことなどが挙げられます。
スカッシュでは、大学のコーチにリクルートされるレベルであったそうです。
そのコーチとガイダンスカウンセラーから、 Wesleyan UniversityにEarly Actionで出せば必ず合格できると太鼓判を押されたのです。
大学に進学するころは、将来ポルシェに乗れるようなお金持ちになりたいと考えていましたが、具体的に何をしたいかというのは、まったくわかりませんでした。
ご両親はクリスが高校に入りたてのころは、大学進学についていろいろ意見を言っていましたが、高学年になると、カウンセラーに相談しながら自分で決めたクリスの選択に、全面的に賛成してくれたということです。
Wesleyan Universityはアイビーリーグではないものの、知名度は高く、全米で高い評価を得ています。
クリスのお姉さんも、進学したSmith College (名門リベラルアーツ女子大)とどちらにしようか迷っていた大学であったため、ご両親は大変喜んでくれました。
Wesleyan Universityの学費と寮・食費は年間約54,000ドルですので、お父さんお母さんの教育費の負担は大変なものであったと想像できますが、お父さんにとっては、それこそ家族をもつ喜びも同時に昧わったわけです。
Yale Universityの大学院には、クリスは奨学金を得て進学しました。
(公立高校→名門州立大学)
ハイジは、 8歳のときに家族で日本に旅行したことがあり、そのときに得た印象が強く残っていて、日本に大変興昧をもっていました。
彼女が通った高校は400人足らずの小さな公立高校で、日本語クラスもなく、大学はぜひ大きな総合大学で日本語を勉強したいと考えていました。
お母さんは早く亡くなり、お父さんとほかに弟と妹がいます。
お父さんは心理学者で、とても教育熱心。
大学教育は人聞にとって最低限必要なものだと考えておられましたが、とくに高額な所得があるわけでもなく、また、子ども3人に平等によい教育を与えたいと望まれたので、ハイジは、大学の費用をお父さんと自分で半分ずつもつことに話し合いました。
アメリカは、学生のための教育ローンや奨学金がたくさん用意されています。
それにしても私立大学ではローンの残額も多くなるので、州立大学にしようとハイジは考えました。
本来、コネチカット州の住民ですから、 University of Connecticutが入学しやすく、費用も安いわけです。
アメリカの州立大学は、まず州民が優先であり、かつ州民には安い学費が適用されます。
University of Connecticutは、コネチカット州の州立大学としては一番の大学です。
しかし残念なことに、そこには日本語学科がありませんでした。
ハイジは何度もカウンセリングを受け、 University of Connecticutに日本語学科のないことや、学校の費用の心配など、いろいろ相談し、ガイダンスカウンセラーからUniversity of Massachusetts -Arnherstを紹介してもらったのです。
この大学の日本語学科が大きく、教材・設備が整い、日本を含め海外からの留学生も多く、国別の言葉を話す寮があったからです(もちろん、ハイジは日本語寮に入りました。)。
また、大学のあるAmherst市はこぢんまりしていて、大変安全で住みやすいところだったのです。
University of Massachusetts -Arnherstは、マサチユーセッツ州の州立大学としては一番の大学です
(この州にはHarvard University、Massachusetts Institute of Technology (MIT)、Boston Universityなど名門私立大学がずらりとあります)。
でも州立大学ですからやはりマサチューセッツ州の人が第一優先になるわけです。
ハイジは高校の成績はバツグンで、しかも飛び級しています。
GPAは3.8。
ガイダンスカウンセラーからSATを受けるようアドバイスされ、1240(数学と読解の合計)の高スコアを獲得。
また、課外活動をすることを奨励されたため、課外活動に精を出し、エッセイもたっぷり時間をかけ、納得のいくものを提出することができました。
もともと教育熱心な家庭ですから、ピアノや声楽なども習っていて、ハイジは自分をアピールするたくさんの武器をもっていたのです。
大学を見学に行き、カウンセラーの話では合格確実ということであったので、この大学一つを受験しました。
University of Massachusetts -Arnherstは、どこの州立大学でも同じですが、やはり大きな大学のため、自分で何もかもやる必要があり、成績が悪かったり何か困ったことがあったりしてもだれも手を差し伸べてくれず、自分で解決する必要がありましたが、一人立ちしたいと強く願っていたハイジには、この厳しい環境が大変適していたのです。
マサチューセッツ州民には入りやすい大学ではあるので、ハイジに比べ学力の低い学生もいたのですが、全体としてハイジはそこで充実した学生生活を送り、親から独立し(費用は半分負担してもらったものの)、日本語もマスターしました。
優秀なハイジは3年で大学を卒業し、ここでもお金を節約したのです
(お金の節約は早く卒業するに限ります)。
その後、文部科学省の募集で日本にやってきたハイジは、日本の高校の英語の先生として数年過ごし、ボストンに戻って働き、結婚。
現在、一服して、また次のステップに向かって準備をしているところです。
(公立高校→リベラルアーツ・カレッジ→メディカルスクール)
(公立高校→アイビーリーグ)
ジムは、ニューヨーク市郊外ロングアイランドにある高級住宅街で育ちました。
お父さんが大変有能な外科医で、収入も高かったため、何不自由のない生活をしていました。
地元の公立高校のレベルも高く、楽しい高校生活を送ったのです。
お父さんお母さんは、あまり教育について口を出すタイプではなく、子どもたちを自由にさせていましたので、ジムは中学・高校では、そんなに勉強した記憶がありません。
むしろスポーツや課外活動に熱心でした。
周りがみんな大学に行くので、自分も大学に進学するのは当然だと考えていたジムは、高校3年生になって、どのような人生を送るか考えてみました。
お父さんは決してジムに医者になることを強要しませんでした。
クラスメイトでよくできる人たちはマンハッタンにあるColumbia UniversityやNew York University (NYU)に進学することを決めていたようですが、ジムは、どこかで、やはり医学部に進学したいと思うようになったのです。
アメリカの医学部(メディカルスクール)は大学院の課程ですから、大学ではまずよい成績を修めなければなりません。
都会っ子のジムは、高校の成績は悪くはありませんので、 NYUなどに進学できる可能性はありましたが、都会のさまざまな刺激に興味があり、大学生になってあちこちに自由に出入りできるようになると、勉強がおろそかになる心配があります。
そこでガイダンスカウンセラーや両親と何度も話し合い、大学は都会から離れて、寮生活をしてオーソドックスなキャンパスライフを送り、そこでしっかり勉強して本格的に医学部をめざそうということになったのです。
家の宗派の関係もあり、カウンセラーに紹介されたのはWest Virginia Wesleyan College (WVWC)でした。
レベルもそこそこで、何といってもアメリカ一、治安のよい田舎生活です。
キャンパスを見学に行き、ここでスポーツを思い切りやり、しっかり勉強をしようと決めました。
さて、アメリカの大学には、医学部予科ともいえる"Pre-Med"という専攻があります。
アメリカのメデイカルスクールへの入学条件は、「大卒者である」「生物・化学などの科目を一定数とっている」ということだけです。
もちろん、大学の成績は高くなければなりません。
また、 MCATという全国共通テストがあり、面接も含めて総合的に合否が判断されます。
Pre-Medはメデイカルスクールが要求している生物などのクラスを最低限クリアしてなるべく早く卒業できるようにつくられた課程ですが、とくにメディカルスクールに入学しやすくなるわけではありません。
むしろメディカルスクールをめざす多くの学生は、生物学を専攻しています。
メディカルスクールに入れなくても、大学院で遺伝子工学などの勉強を続けられるからです。
ジムは心理学を専攻しました。
精神医学に少し興昧があったので、心理学者になってもよいとどこかで考えていたからです。
マイナー(副専攻)やダブルメジャー(もう一つの専攻)として生物をとることもできますが、一応、選択科目として生物をいくつかとることにしました。
GPA3.9という好成績で大学を終えた彼は、無事NYUの医学部に進学しました。
そして精神科医になり、いまは山の中の4年間の大学生活をとても懐かしんでいます。
あの環境で、生まれて初めて熱心に勉強に取り組み、自分の将来を考え、心理学を勉強したことも、とてもよかったと思っています。
ジムの妹のカレンは、勉強がよくでき、高校のガイダンスカウンセラーにも強くすすめられて、アイビーリーグのDartmouth Collegeに入学しました。
経済学を専攻し、ニューヨークの証券会社で働き、大学時代に知り合った人と結婚し、主婦をしています。
亭主は、MIT(マサチューセッツ工科大学)の工学の修士と、 Harvard UniversityビジネススクールのMBAをもっているという秀才で、カレンは彼のことを"Nerd(おたく)"と呼んで少々あきれ気味ですが、電機メーカーやコンピュータ会社などを3年おきに出世しながら転職し、世界中に駐在しています。
二人の結婚式は兄妹が育ったロングアイランドの家の庭で華麗に行われました。
(公立高校→リベラルアーツ・カレッジ)
ステファニィはSalve Regina Universityというリベラルアーツ・カレッジのAdmissions Office (入学管理事務所)で働いています。
お母さんは他界、お父さんは高校卒業後コンピュータプログラムの会社に30年間勤務していて、その間、働きながら二年制大学と四年制大学を卒業しました。
お父さんは、大学を卒業したほうが将来の選択肢も広がるので、どんなことがあっても学士号 (Bachelor's Degree)は取ったほうがよいとステファニィに言っていました。
ステファニィは、はじめは幼稚園の先生、後に高校の先生になりたいと考えていて、そのためにはどうしても大学には行かなければならないと思い、お父さんよりも自分自身のプレッシャーのほうが強かったのです。
大きな州立大学や都会にある大学より、田舎にある小さな私立のリベラルアーツ・カレッジに進みたいと考えていましたが、私立は学費も高く、お父さんの年収から考えても無理なので、お父さんからの賛同も得られず、一番費用が安く済む、自分が生まれ育ったコネチカット州の州立大学を受けることにしていました。
高校のガイダンスカウンセラーに自分の将来の希望や、学費の心配などを何度も相談していて、もし、奨学金をもらえるならば、 Salve Regina Universityに行くことをすすめられていました。
Salve Regina Universityは、自分の家からもそれほど遠くなく、休日には帰省できる距離でした。
大学を訪ねてみて、先生やスタッフと話をしたとき、どの人もとてもやさしく、一人ひとりの学生を大切に考えながら教育を提供する大学だという印象をもちました。
高校では1番ではなかったものの、つねに上位の成績で、卒業時は学年で11番でした。
GPA3.4、SAT1200(数学と読解の合計)、 Honor Program (優秀な生徒しか入れない進学コース)にも入り、 APクラスもとっていました。
また、クラブ活動もボランティアも精力的にやっており、クラブはテニス部のキャプテンを務め、ボランティア活動ではグループのリーダーとして地域の老人ホームや小中高校でお手伝いをし、募金活動も行いました。
また演劇がかねてから好きだったため、高校時代にミュージカルのプロデュースをしたこともあります。
エッセイでは、自分が先生になりたかったので、理想的な先生はどうあるべきかを書きました。
いままでに教わった、よい先生(生徒を公平に扱い、新しいことを積極的に授業に取り入れた先生)と、客観的に見てあまりよいとはいえない先生(周りからの批判や助言、新しい技術を取り入れず、何十年も同じ教えかたをし、生徒との関係を築こうとしなかった先生)を比較し、教師の理想像を描くとともに、「自分自身、学生として、どんなタイプの先生に出会っても、信念を曲げずに、先生と信頼関係をつくってゆきたい」と書きました。
出願したのは以下の4校ですが、以上のことが総合的に評価され、すべての大学に合格しました。
なおステファニィはこれら4校を事前に訪問しています。
Central Connecticut State University
Eastern Connecticut State University
そしてSalve Regina Universityから奨学金が出ることになり、同大学に行くことに即決しました。
学費の半分を奨学金がまかなってくれ、残りの半分はローンを組んで現在返済中です。
大学在学中も生活費を切り詰め、学内のさまざまなオフィスでアルバイトをし、またお父さんにも助けてもらいました。
在学中、Admissions Officeでアルバイトをしたのが縁で、卒業後スカウトされ、現在に至ります。
演劇を専攻し、教育学を副専攻にしました。
将来は、学校で演劇を教えたいと思っていますが、人を助けるという仕事が大好きなので、いまの仕事でも大変充実した日々を送っています。
学生として、あるいは大学職員として、ステファニィは、Salve Regina UniverSltyについてポジティブ・ネガティブの両面を以下のように話してくれました。
【ポジティブな面】
・ステファニィがいた4年間に大学はいろいろな面で変わった。
留学生も増え、学生も多様化された。
・学校が小さいのでキャンパスを行き交う人々の顔や名前は覚えられたし、教授も学生と親身に接してくれた。
・学生数が少ないため、課外活動でも活躍でき、「自分はグループの一員なのだ」と実感することができた。
リーダーシップをとる機会もたくさんあった。
【ネガティブな面】
・もう少し科目の選択肢が多ければよいと思った。
しかし、まだやりたいことがはっきりしていない学生にとっては、選択が狭いほうがよいのではないかとも思う。
大規模大学のように、何百もある科目から自分のとりたい科目を選ぶのは、途方もない作業なので。
・大学院中心の総合大学と違って、専門化されていない科目も多かった。
(名門私立高校→名門リベラルアーツ・カレッジ→名門総合大学)
Choate Rosemary Hallを卒業後、フランスで1年間、ワーキングホリデーのようなことをしていた女性がいます。
ベスは、 16歳でフランスに家族と旅行し、社会的弱者に対してやさしくしっかりした社会保障をもち、リベラルなフランスの政治に大変感銘を受け、フランスとつながりをもちたいと決心したそうです。
べスは、民主党支持者で、政治や社会の出来事に関心が強く、正義感も強い人です。
高校生のときは、政府の仕事をしたいという希望がありました。
また写真や絵画に興味があり、クリエイティブなことが好きで、ワシントンDCでは美術館で働き、2001年9月11日の同時多発テロ以後はボストンに引っ越し、現在はソフトウェア会社のマーケティング部門で働いています。
お父さんお母さんはコネチカットの人で、お父さんはUniversity of New HavenでMBAを取得し、ニューヨークの銀行で働いていましたが倒産したため、現在は住宅ローンのブローカーをしています。
お母さんは医療関係で秘書をしています。
お父さんは自分のキャリアに満足せず、娘たちの教育に力を入れ、どんなムリをしても最高の教育を提供することがすべてだと信じている人でした。
したがってChoate Rosemary Hallの高い学費を支払い、Columbia UniversityかYale UniversityかNYUのいずれかに入学することを望んでいました。
また、将来は医者か弁護士になってもらいたく、それはいまでも思っていて、そういう方向に努力していないことにときどき文句を言うそうです。
高校を出て大学に進学せずフランスに渡ったことは、両親にとっては大変ショックなことでした。
本人はヨーロッパにあるオーペアー制度を使って、フランス人の家にお手伝いさんとして置いてもらい、午前中はフランス語の学校に行き、その他の時間は、家のあらゆるお手伝いをしました。
その後、フランスとイタリアを旅行して、1年後にアメリカに帰国したのです。
大学に行くことは絶対だと考えていたべスは、両親とは異なる自分の希望をガイダンスカウンセラーと相談していて、候補に挙がったBrown University、Wesleyan University、Skidmore Collegeのうち、フランスに出発する前に願書を出していたSkidmore Collegeに入学しました。
リベラルアーツ・カレッジの名門で、アートに強く、小規模なこの大学を、高校のときのキャンパス見学でとても気に入っていたからです。
しかし、彼女はSkidmore Collegeを1年でやめてしまいます。
大学は山の中にあり、本当に小さなコミュニティでした。
フランスで1年間生活し、各地を旅行したべスにとってはとても息苦しく感じたのです。
1年後に総合大学であるGeorge Washington Universityに転校します。
しかし、ここはここで、教授たちは大学院の研究には熱心ですが大学生に対しては関心が薄く、ないがしろにされることもしばしばで、TA(Teaching Assistant :大学院生の助手)が教えに来るし、Skidmoreのように学生に対して刺激を与える教授とは出会えませんでした。
それでも彼女はGeorge Washington Universityを卒業し、美術館に勤め、そこで9.11の事件に遭遇します。
ワシントンDCという町に何となく不安を感じた彼女はボストンに移動し、いまに至っています。
まだ26歳、両親の期待も消えていないようでもあるし、今後の展開はわかりません。
(公立高校→リベラルアーツ・カレッジ)
三人姉妹の末っ子のジェシカは、ご両親も二人のお姉さんも大学を卒業しているので、とくに勉強に関してガミガミ言われたりエリートになることを求められたりはしませんでしたが、大学に行くのは当然のことだと考えていました。
お父さんは商社マンでお母さんは小学校の先生。
ごく普通のアメリカの中産階級です。
小柄ながらもエネルギッシュで、初めて会った人にもどんどん話しかける、フレンドリーで積極的なジェシカは、小さいときから教会の青少年部で、チャリティバザーや聖歌隊、貧しい人に食べ物を与えたり地域の新移民に英語を教えたりするボランティアなどをしていて、教会ではリーダー的存在でした。
しかしながら、これらの活動に熱心なあまり、学校での予習・復習をきちんとせず、テストは一夜漬けで何とか切り抜けるという有様であったため、成績は良くありませんでした。
高校在学中に、お祖母さんが病気になり、その時にお世話になったソーシャルワーカーの女性に強い憧れをもちました。
もともと教会のボランティア活動を通じて、人に接したり、人を援助したりする仕事をしていたジェシカは、将来もそうした仕事に就きたいと思っていたので、いっそ本格的に専門的な勉強をして、ソーシヤルワーカーかカウンセラーになりたいと思い始めました。
専門のライセンスを持っていなくても人を援助する仕事はできますが、一生続けたい仕事なので、ライセンスを取りたいと思ったのです。
しかし、高校のガイダンスカウンセラーにそのことを話すと、カウンセリングは大学ではなく、大学院からしか本格的に学べないことを教えられました。
修士号を取る気はまったくなかったので、はじめはショックを受けましたが、両親に相談すると、「本気でやりたいのであれば、大学院までめざしなさい」と後押しをされました。
高校での成績があまり良くなかったため、大学院進学には、何としても大学でいい成績を取る必要があります。
ガイダンスカウンセラーには「大きな大学ではたくさんの学生の中で抜きん出るのはむずかしいが、小規模な大学であればそれも不可能でない」と言われました。
また、小規模大学はきめ細かに学生の指導にあたってくれるとも聞いていたので、もともと勉強習慣が身についていなかったジェシカは、自分には小さな大学が向いていると確信しました。
また、将来は日々さまざまな人に接するカウンセラーになりたかったので、そのためにはどの分野にもまんべんなく精通している人になる必要があると感じていました。
医療の現場で患者さんやその家族を援助するソーシャルワークにも興味があったので、高校で散々な成績をとっていた理系科目(数学、生物、化学、物理など)も心機一転、はじめの一歩から勉強をやり直したいと思っていました。
リベラルアーツ・カレッジであれば、専攻科目は少なく抑え、その代わりいろいろな教科がとれる、専門的な勉強は大学院で勉強できるので、大学時代は人間としての土台作りをしようと患ったのです。
GPAは2.9、SATは1070(数学と読解の合計)という状況で、カウンセラーと相談し、ニューイングランド地方(北東部)を中心にリベラルアーツ・カレッジを5校選び、それぞれに父親と見学に行き、入学審査官と話をしました。
エッセイには、お祖母さんが病気だったときに出会ったソーシャルワーカーとのやりとりを通して、いかに現代社会で専門的な援助が求められているか、ということについて書きました。
何人もの人に書き上げたエッセイを見せてフィードバックをもらい、最終的には民間の会社にお金を支払って添削してもらいました。
出願した5大学のうち3校に合格し、現在、ボストンから2時間くらいの山の中にあるFranklin Pierce Collegeで勉強しています。
高校のガイダンスカウンセラーが言っていたように、Franklin Pierce Collegeは小規模のため、指導は行き届いています。
チューター(個別の家庭教師)も勉強を見てくれますが、何よりもオフィスアワーに担当教授を訪ねると喜んで指導してくれるのがとても嬉しいし、高い学費を支払っている甲斐があると思える、高校の時に大の苦手だった理系教科でもBをとれていることに自分でも感激している、とジェシカは言います。
ちなみに学費はすべて両親が負担しています。
しかし、大学院の学費は自分で 負担するか、奨学金をもらうように言われているそうです。
大学院に合格できるだけの成績を大学でとり、大学院出願時に提出する推薦状を教授に書いてもらうようにネットワークづくりをするなどして、何としても自分が有利になるような土台作りをするのが、いま一番こころがけていることです。
現在ジェシカは、ソーシャルワーカーかカウンセラーになって、病院や地域の公共施設で人を援助する仕事に就くこと、とくに社会的に立場の弱い女性(移民や、家庭内暴力・育児に悩んでいる女性)の援助をしたいと思っています。
(公立高校→普通の州立大学)
いで立ちからして完全にパンクのピート
(23歳)は、大学で5年目を迎えています。
イージーゴーイングの性格で、友だちが多く、バンド活動に忙しくて、専攻をコミュニケーションからビジネスに変更し、とかくダラダラと時間が経ってしまっています。
それでも最近は周りの親しい友人も卒業して、いなくなってしまい、経済的にもこれ以上大学生を続けるのは無理なので、何とかこの学期で卒業しようと、いまは真剣です。
ピートは、両親が離婚していて、お母さん、お祖母さん、弟と住んでいるため、金銭的に余裕はありませんでしたが、だからといって高校卒業後に、すぐに社会に出たくはありませんでした。
地元の友だちの多くが大学に進んだので、自分も同じように大学に進学したのです。
大学は、勉強するために行ったのではなく、高校から続けている地元の仲間とバンド活動をするため。
就職してしまうと、なかなかバンド仲間と時間が合わないけれども、自分で時間割を組むことができ、時間を調節できる大学は、ピートにとって最高の場所に見えました。
また、アルバイトで稼いだお金を家に入れたかったので、バンドの余った時間でアルバイトをしようとも考えていました。
このような理由で大学に行ったので、ともかく自宅から通えて、簡単に入学できて、費用の安い大学にしようというように大学を選びました。
現在通っているBuffalo State Collegeは、そういう意昧で彼にとっては一番よい大学だったのです。
高校にガイダンスカウンセラーはいましたが、初めは自分で進んで会いに行くことはありませんでした。
しかし担任の先生に、大学進学を真剣に考えているのであればカウンセラーと話すべきだと説得されたので、みんなより出遅れてカウンセラーに会いに行くようになります。
成績があまり良くなかったので、とにかく成績を落とさないこと、そしてできるだけ課外活動に参加することを勧められました。
SeniorになってからはともかくCをとらないことに一生懸命になりましたが、成績では大学にアピールできないと思っていたので、エッセイに力を入れ、何度も何度もカウンセラーに添削してもらいました。
出願時には、 GPAが2.6、SATは1000弱(数学と読解の合計)でした。
2校の州立大学に合格しましたが、自宅から通えるいまの大学を選び、通学しています。
高卒よりは大学に行ったほうがいいとは思っていましたが、何しろバンド活動が一番好きで、バンドで食べていくのに大学教育は必要ないと考えていた時期もあります。
また、お母さんもNPOで働いていますが収入は低く、お父さんは現在もお母さんに生活費を送っていますが、それはピートの学費に回せるほどのものではありません。
それでも家庭はなごやかで、家族4人でとてもうまくやっています。
ちなみに大学に行くと決めたときは銀行からの学生ローンを借りることにしたため、ピートは卒業後、返済をしなければなりません。
高校を卒業したときは、将来もバンドを続けて、音楽で食べていきたいと思っていましたが、自分たちよりも才能のあるバンドが地元で苦戦しているのを見て、いまは将来音楽で食べていきたいとは思わなくなってきました。
本心は、できるだけ長く大学生でいたいと思っていますが、これ以上大学にいると学費が支払えないので、とにかくあと1学期で卒業できるように、現在はどの授業もきちんと出席し、バンド活動もテスト前は控えています。
地元にある一番大きな州立大学にあるESL(外国人のための英語)コースでアルバイトをし、多くの留学生の友だちができました。
日本人の友だちや日本人の彼女と過ごしているうち、将来日本に行きたいという考えが現在、頭に浮かんでいます。
日本語はカタコトしか話せないので、まずは英会話スクールで先生をできたらいいなと考えています。
しかし、大学を卒業するまでにもう少しあるので、具体的な計画はたてていません。
毎日が楽しくバンドもやめられないピートです。
ひょっとしたら日本にやってきて、音楽を用いて英語を教える、なんてことになるかもしれません。
(公立高校→州立大学→コミュニティ・カレッジ→四大に向けて準備中)
サラは、フロリダからボストンにやって来て、小さなデザインの会社で働いています。
お父さんは、一流大学で修士号をもち、Internal Revenueのコンピュータセクションでマネジャーをしています。
教育には人一倍熱心で、サラには、「教養」をしっかり身につけた人になるために、努力の結果を点数や成績で出すように期待する人でした。
もともとよくできるサラは、高校の授業はむずかしいものではなく、GPAは3.5、SATのスコアも1140(数学と読解の合計)でした。
大学進学は当然という雰囲気の中で、サラは大学に行く意義を見いだせずにいました。
お父さんは再婚で、新しいお母さんとの聞に、サラとは年齢の離れた中学生の妹が二人います。
サラは高校を卒業するころはピアニストか女優か、はたまたヒッピーになりたかったそうです。
家の中で何となく孤立し、十代特有の、すべてに反発を感じるという精神状態だった彼女は、大学進学に対して熱意をもてず、またガイダンスカウンセラーの所に通うことも少ないまま、フロリダにある3校の州立大学にとりあえず願書を出し、Florida State Universityに入学しました。
フロリダ州の州立大学としては2番目にレベルの高い大学です。
自分の悩みに向きあいたいと思い、一応、心理学を専攻することにしたのですが、入学してみたら、大学の規模が大きく、一人ひとりの学生に先生の目が届かず、また、すごいスピードで授業が行われ、勉強量も考えたよりずっと多いものでした。
そして、ここは自分のいる場所ではないと思い、2か月で大学をやめてしまいました。
お父さんの怒りは大変なもので、ギクシャクした時間が流れ、サラは友人を頼ってボストンに出てきました。
学歴は高卒なので、よい職業に就く機会もありませんでしたが、数年の後、もう一度、大学に行ってみたいと考え、費用が一番安く、願書一枚出せば簡単に入学させてくれ、しかも働きながら通えるコミュニティ・カレッジに入学します。
そこでアートのおもしろさに気づき、グラフィッククデザインに専攻を変え、卒業して、いまはデザインの仕事をしています。
サラはコミュニティ・カレッジについてこのような観察をしています。
まず、先生のお給料が低いため質が低く、満足できるクラスが少ない。
グラフィックデザインの本格的な勉強はとてもできず、ほんの初歩をかじれるだけ。
また、基本的にだれでも入学できるため、学生全体の国語レベルが低い。
中にはサラのような人や、すでに大学を卒業していて興味のあるクラスだけをとりにくる人もいるが、大学側は個人の能力を考えることなく、みんな一緒くたに授業を行ってしまう―――もともと能力のあるサラは、あまり努力することなくオールAをとったそうです。
コミュニティ・カレッジ卒では、なかなかよい仕事はないのですが、彼女は人脈があり、いまの仕事に就くことができ、お父さんも、ともかくコミュニティ・カレッジに進学したサラに、大変喜ばれているということです。
また今後、仕事のレベルを上げていくためにはもっとキチンとした勉学が必要なので、サラは現在、四年制大学に進む用意をしています。
社会に出てみて、サラは以下のことに気づきました。
・一度特定の職に就いたからといって、そのポジションにしがみつくことなく、仕事をしているうちにその先の展望が見えてきたら、また学校に戻ることが大切 。
・仕事と教育をつねに並行させて、自己能力開発をしていかなければならない。
・アメリカには、そのためにパートタイムで学べる大学など、いろいろな形で教育が用意されている。
サラは、自分が情熱を燃やせる仕事に就いたことで、毎日が充実し、もっと先をめざそうと、
26歳になって真剣に思えるようになったのです。
(公立高校→Technical College→コミュニティ・カレッジ→芸術専門大学)
ポールはタイ系アメリカ人です。
14歳のときにタイから両親とフロリダに移住してきました。
アメリカにはこういった移民が多いのですが、公立高校は基本的に義務教育ですので、英語力不足であっても、どんどん入学させます。
ポールは、不慣れな外国生活と語学力の不足もあって、高校はとても悪い成績で卒業しました。
移民してきたばかりでお父さんお母さんの生活も大変で、本人も、将来に特別な夢をもっていなかったので、ともかく明日食べるための職に就けるTechnical Collegeに進学しAuto Mechanic (自動車整備)を専攻しました。
Technical Collegeは公立の二年制大学で、いわば工科系のコミュニティ・カレッジです。
先述のようにアメリカでは、義務教育を終えたくらいでは、ウェイターなどの単純労働にしか就けません。
そのウェイターですら、大学生がアルバイトでしますので、高卒で仕事に就くのは本当に大変です。
したがって、 Technical Collegeという高卒者のための職業訓練校で、自動車整備の技術を学び、とりあえず仕事に就いたのです。
就職して7年後に仕事の関係でボストンにやってきましたが、自分のやっていることに疑問を感じ、また、生活も決して楽ではないので、改めて大学に行くことにしました。
かねてからArtに興昧があったので、思い切ってBunker Hill Community CollegeでArtを専攻することにしたのです。
高校の成績がとても悪いので、四年制の大学には行けないし奨学金も得られないのと、何よりもコミュニティ・カレッジは学費が安く、働きながら通うのに最も適していたからです。
Bunker Hill Community Collegeはパートタイムの学生が半数以上を占め、土曜日や夜間のクラスもたくさんあり、14歳で移民としてやってきて、かつ両親からの援助もなく、一人で生きていかなければならないポールにとっては、さまざまな面で好都合であったのです。
コミュニティ・カレッジに通うようになってからポールの勉学意欲は少しずつ高まり(もともとご両親の教育レベルもタイでは高かったので)、アメリカという国にも慣れ、アメリカ人として周りを見渡せるようになってきました。
そうしてみると、ポールにとって、コミュニティ・カレッジは、不満足な面がたくさん見えてきたのです。
費用を安く抑え、ともかく何とか職に就くための勉学・技術を教える大学であるため、教授の質がよくない。
職業訓練所の役割を果たしているというものの、 2年間で終わってしまうので、いまのように技術革新が大変早く、よりレベルの高い能力が要求される時代に、必要とするスキルを十分身につけられずに卒業してしまう。
また、とてもCollegeレベルとは思えない人や、かつてのポールのように英語力が不十分な移民の子弟も入学しているので、学生そのものがなかなか授業を消化できない、にもかかわらず、どんどん授業が進んでしまう。
先生が個人的に学生を指導することもなく、クラスの能力を引き上げる努力を怠っている――といったようなことが見られたわけです。
普通の四年制大学の1l年生が学ぶ科目と同じレベルの科目を、コミュニティ・カレッジでは2年間とることになるので、得られるものはとても乏しく、彼が本格的にアートに傾こうとすればするほど、不満足になっていきます。
ポールにとっては、理論を学ぶ→道具の扱いを習得する→実際に創作する→技術を磨く、という順番をキチンと習っていきたいのですが、とても2年間で、しかもコミュニティ・カレッジのレベルで、それを習うことは不可能だということを知りました。
ともあれ、コミュニティ・カレッジをトップの成績で卒業した彼は、ますますアートにめざめ、本格的に勉強したいと考えて、名門のMassachusetts College of Artsにチャレンジしようと準備中です。
コミュニティ・カレッジからMassachusetts College of Artsへの編入はめずらしいことですが、彼は、アメリカ人として新しいスタートをきり、より上をめざして努力するという、アメリカ人の生きかたをこれから実践しようとしているのです。
(公立高校→州立総合大学)
ソルは日系四世です。
ハワイで生まれ育ちました。
日本語は完壁ではありませんが話せます。
お父さんは普通のサラリーマンです。
ソルの家族は普通の日本人以上に日本の文化や行事を大事にしています。
でも、もちろんアメリカ人です。
アメリカという国をとても大切に思い、アメリカ国民としての誇りをもっています。
日本が好きで旅行も好きなソルは、高校の成績もそんなに悪くなかったので、ハワイの多くの学生がするようにハワイの大学に進学し、観光学を専攻しました。
彼が進学したUniversity of Hawaiiは、ハワイではトップの州立大学ですし(もっともハワイに大学は10校くらいしかありません)、ここの観光学科は随分有名です。
卒業後ソルは、飛行機も大好きでしたので、国際線のフライトアテンダントの職を得たいと考え、運よく、卒業してしばらくしてからノースウエスト航空に就職することができました。
しかし、 1年後に大変な不況が来て、経験の浅いソルはたちまちレイオフされてしまいます。
レイオフとは、景気が回復したら、また優先的に入れるという条件付きのクビです。
景気が良くならないと戻れる見込みはありません。
アメリカは組合の力が強く、レイオフとなると、古い人たちのほうが絶対に強いので、なかなかそういった人たちをレイオフすることができず、経験の浅い者から切ってしまうのです。
古い人ほど給料も高いので、とても矛盾に思えますが、致し方ありません。
アルバイトをしながらソルはじっと景気の回復を待ちます。
1年たっても、かんばしい話は聞きません。
とても優秀なので当オフィスでフルタイムにしたらどうかと誘ってみたのですが、国際線のフライトアテンダントは彼にとって天職であるらしく、ギリギリの生活をしながらも、かといってそんなに歯を食いしばっている風でもなく、辛抱強く待っている姿に本当に驚いたものです。
かくして、ソルはいまは元気に、アジアを中心とした国際線を飛んでいます。
日本生まれの日本人女性と結婚し、子どももでき、いまではもう中堅です。
(公立大学→大規模州立大学)
エミは日系ペル一系アメリカ人です。
お母さんは日本人ですが、おじいさんが外交官としてペルーに滞在しているときに、日系二世のペル一人であるエミのお父さんと知り合って結婚し、エミが生まれました。
わけあって離婚し、お母さんはエミを連れてアメリカに渡り、イギリスから来たアメリカ人と結婚しました。
エミは新しいお父さんともうまくいきました。
コネチカット州の地元の公立高校で優秀な成績を修めたエミは、University of Massachusetts -Amherstの日本語学科に進学しました。
日本語があまり上手ではなかったので、キチンとマスターしたいと考え、一番日本語学科の充実している University of Massachusetts -Amherstを選んだのです。
卒業後、すぐに結婚しました。
相手は中国系アメリカ人三世で、イギリスの大学の建築学科を卒業しています。
二人は、ペルーにも日本にも中国にも旅行し、ニューヨークにある彼の実家では、ペルー風・日本風・中国風が入り乱れての結婚式でした。
アメリカはこのように人種が混ざるということがめずらしくありません。
よく調べると、フィリピン人の血が4分の1入っていたり、ネイティプアメリカンの血が8分の1入っていたりなんていうこともあります。
また、家族が血がつながっていないというのもよくあることです。
Stepfather(継父)、Stepmother(継母)という言葉もよく耳にします。
エミは、翻訳の仕事を在宅でしています。
亭主は設計事務所に勤めていますが、現在よりよいポジションをめざして転職先を探しています。